一人の人間が一生を生きる事って凄い事ですね、
いくつもの試練が訪れ、乗り越えようと頑張ったり、または逃げて自己嫌悪になったり、後悔したり、
落ち込んだり、その後の喜びを手に入れたり、または傷つけたり傷ついたり。
それがなければ人間は成長もなければ充実感もない訳で、
本当の姿はそれを求めているとすら思います。

でもこれも生きてこそですね。
私の幼いころの命の恩人が、先日亡くなられました。
その事を知った時、改めて『命』を考えてしまいました。

私が、幼少の頃(5~6歳)、私は大雨の中、増水した川に頭から落ちました。
家の隣が川で、橋の上から数メートル下の川に落ちた訳です。
昔は川で洗濯していたので、コンクリートで出来た洗濯場がありそこに頭を打ち付けました、
しかし、増水していたので水がクッションになり、致命傷までには至らなかったです。
と言っても、頭蓋骨は大きくヒビが入り出血しながら増水した川を勢いよく流れて行きました。

ちょうど私が落ちる1年前に、同じ年の女の子が同じ川に流されて亡くなりました。
父が発見者でしたので、その夜は私に
「あの子はうつ伏せになっていたから、もしお前が落ちたら上を向きなさい」と言われ
初めて死を知りました。

私が落ちた時、その事を思い出し、流されながら必死に体を反転させ必死に上を向きました。
何度も水を飲み、息が苦しかったです、
しかし、不思議な事がありました。

流されながらも目の前には、色んな仏さんや仏像が浮かんでは消え浮かんでは消え・・・・・。
何体も何体も見えました。
そうして、その仏像が消えたのは、ちょうど私がTさんに抱きかかえられっとき出した。

Tさんは、大雨の中、勝手口からゴミを外に出して扉を閉めるまでの僅かな時間の中、「ドボン」と
川に何か落ちる音を聞いたそうで、のぞいたら私が流されていた訳です。
直ぐに追いかけて、下流で私を助けてくれたのでした。

助かってから、私は家族に
「手が何本もある方が出た」とか「顔が何個もある方が出た」とか「背中から光線を出している方が見えた」とか言っていたそうで、
子供だから仏像をしらないから、そういう例えしか言えなかったのですが
父は「頭を打っておかしくなった」と思っていたらしいのです。

ある日、仏像の本を売りに来た方が、仏像のカレンダーを置いていきました、
私は「あっ、これが出てきたの」と阿修羅像を指して言いました。
父は「そっか、仏像だったのか」と初めて意味を知りました。

その後もいろいろ続きましたが、
その恩人のTさんの助けで私は命を頂きました。
Tさんありがとうございました。
そしてどうか安らかにお休み下さい。

 

2011年12月21日