こんにちは、今日は私が入ってる地球村通信をご紹介致します。
将来地球を変貌させるだけのフロンガス、二酸化炭素は既に排出されました。
 それらは20年位掛けてボディブローの様に効いてきます。

その話を18年前にはじめて聞いて、衝撃を受け、
それ以来、なんか世の中の役に立ちたいと常に思っています。
 でも、皆さんも心のどこかでそう願っていると思います。
何か、このままでいいのか?自分はこれで満足なのか?
など思っていたら、きっと何かの役に立ちたいと思っているのでしょう。
 
 これは、日本人の持っている優しさ、受け入れる寛容さを現わしていると思います。
少しでも心に潤いがいけばいいなぁ、と思いますVV
★イラン・イラク戦争の秘話
1985年3月17日、
「いまから48時間以降、イラン上空を飛ぶ航空機は無差別に攻撃する」
とフセイン大統領が宣言。
日本政府の判断の遅れから、日本人の脱出が困難となりました。
在イラン日本大使館は、必死で各国と交渉したものの、どの国も自国民の救出に手一杯で、
応じてくれる国はありませんでした。
200名以上の日本人は空港で危機に瀕していました。
その時、トルコの民間機2機が空港に飛来、間一髪で日本人全員を救出し、
日本まで無事送り届けてくれました。
事情は誰にもわからなかったのですが、のちに駐日トルコ大使は次のように語りました。

「エルトゥールル号遭難の時、日本人がしてくれたことを私たちは忘れていません。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号のことを知っています。
だから、イラクで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」

トルコ政府は、日本人が脱出できずに困っていることを知り、
自国民救出のためにチャーターした最後の民間機を、日本人救出に振り向けたのでした。
その結果、トルコ人500名は陸路でイランを脱出しました。

★エルトゥールル号事件とは
1890年(明治23年)9月15日夜、
トルコの軍艦エルトゥールル号は和歌山沖で台風に遭い沈没。
650名が海に投げ出され、69名が大島村(串本町)に助けを求めました。
住民たちは総出で生存者の介抱に当たりました。
住民は、衣類や食料を提供しましたが、たちまち底をつきました。
非常用のニワトリすら供出するなど、献身的に生存者たちの回復に努めました。
島を挙げての捜索で219名の遺体を収容。
遺体は遭難場所を見下ろす丘に手厚く葬られました。
政府を上げて遭難者に対する支援が行われ、生存者は日本海軍によって、
翌1891年1月2日にトルコのイスタンブルに送り届けられました。
このことはトルコ(オスマン帝国)国内に大きな衝撃を与え、
いまでも広く知られるようになっています。

その後、和歌山には、立派な慰霊碑が建設され、
毎年、エルトゥールル号慰霊祭が行われていて、
今年の6月7日の追悼式典には、来日中のトルコ大統領も出席しました。
2011年1月28日